電車内で足を組むことの正当性と、マナーを注意できる大人の貴重性について。

ということで、どうも。

Twitterにてバズった投稿を見ては癒やされたり考えさせられたりする男、

チリアクタです。

 

主に若者が高齢者たち(特に声が大きく、周囲に恫喝まがいの行動を取る傾向にある人物たち)を「老害」と呼ぶらしい。

つまるところ、現行の「若者の世」において、必要とされていない行動を取る人物たちを侮蔑する際に用いられるらしいが、実際は組織内での世代交代が行われないことを表す表現である。

 

今回取り上げたいのは

「電車内で足を組む女性を注意し、足を新聞紙でひっぱたく、大股で座る高齢男性」

の動画である。

まず前提として、この動画は事件の真ん中しか捉えていないということだ。

 

批判されている点について、その根拠と不完全さを見てみよう。

 

足を組む女性を非難しているくせに、高齢者は大股を広げている!

→最初から大股を広げて座っていたのでしょうか?座っている際に彼女が組んだ足をみて注意するために足を広げ、できる限り女性の方へ体を向けた結果なのではないでしょうか?

結局映像が真ん中しか存在しないため、決めつけるのはまだ早いのでは?

 

(個人的な疑問ですが)電車内で新聞を読もうとしてるのもまた迷惑なのでは?

→これも映像が真ん中しかないので、おじいさんがどうやって新聞を読んでいたのか、読むつもりだったのかわかりません。

 

足を組むことを注意されているのに、また足を組む女性の意図がわからない!

→この点に関してはなんとも言えません。また、組んでもいいじゃない!という意見がちらほら見えますが、それについては次に記します。

 

そもそも満員電車じゃないんだから足組んでも問題ないのでは?

→私は怒れる老人や若者が近くにいたら逃げます、付近に座っている人はよほど優しいか、席を譲りたくない(つまりこんでる)人たちなので、結局この動画を見ただけではその真偽はつかめません。

 

つまり、この動画を見ただけではこっちが悪い!とは言い切れないのです。

全然関係ないけど、あの2人ってカップルなのかな。

それが原因であの女性を擁護する気が起きないのかもしれない。←ここ重要

 

 

この投稿から見える社会

 

先日私はセクハラ等々について長々と記事を書きましたが、そんなに影響力がないと自覚して書いているわけでして、陰口を言っている人間だと思っていただいて構いません。

私もそのつもりで書いてます。

 

で、この陰口、Twitterもそういうツール化しているのではないでしょうか。

 

件の投稿をおじいさんが見たら、Twitterはもっと紛糾するでしょう、しかし大抵の場合「老害」もしくは「どっちも悪い」で落ち着きます。

なぜなのか?

それは高齢者がTwitterを使用する確率が低いという固定概念が生んでいる現象だと思われます。

つまり、自分の意見を否定する人間が少ない上、多数決が如実に現れる世界がSNSだと思います。

老害」というコメントが「擁護」というコメントを上回ると全員が「炎上」を恐れて老害を連呼することにつながるのではないでしょうか。

 

しかしながら、男性であればこんなことは起きなかったかもしれないなどのコメントも散見されています。

つまり女性であったから注意されたと。

それはわからん。としか言えませんが。

一つ私の経験から言えば、自分より弱い人間に対しては強気に出れるのが人間という生き物だと思うので、このおじいさんにとって女性は自分より弱い存在なのだと言うことでしょう。

(弱い立場の人間を守れる人間になろう!!←綺麗事だけど大切にしたい)

 

この動画、投稿を見てまず感じたのが

高齢者対周りの乗客という構図です。

殆どの乗客はこの現状に対し「傍観」という手段をとっていますが、彼女を積極的に擁護する男性が写っています。私のようなモテない人間から見れば、この二人はそこそこ親密な関係にあるんじゃないかと考えます。

それと同時に、なんだか無性に苛つくのです。

三者が説明しているようにも見える(まさに冷静な行動とも言えるけれども)状況ですが、実際は女性側の人間が車掌に説明しているわけです、ここに公平性もクソもないので、イラッとくるんでしょう。

 

 

 

本当はTwitterでこういうことを発信できればいいんですが、私も炎上を恐れる一人の人間ですので、はてなブログさんを隠れ蓑に後ろからチクチク刺していこうと思います。

 

 

ただし、僕が好きな経済学とかそういう観点からこの問題を見ると。

間違いなくおじいさんが悪いです。

最終的にこの列車の出発が遅れているよう見えますし、何よりこのような現場を見てしまった人々は生産性が低くなります。

そうなると最終的に社会の利益が損なわれているはずなので、このおじいさんが原因であるという結論になります。

例外として、

このおじいさんが実はめちゃくちゃ金持ちで、病院に数千万という単位でお金を使う人間であった。

この電車がめちゃくちゃ満員で、にも関わらず足を組んでいた。

等々が考えられます。

 

 

また、別の観点で見ますと。

彼女が電車内で足を組むことは彼女の好き(自由)ですので、新聞紙を用いたとしても暴力という行為で自由を奪っているおじいさんは悪者ということです。

 

 

 

感情論で物を言わせてもらえば

「女性が席を離れて車掌さんに助けを求めるとか、隣の男性が女性と席を変わるだとか、もっと問題を丸く収めるやり方がたくさんあったと思う。それをお互い頑固に座り続けるのがまた無性にイライラする。そしてそんな些細な問題をこうやって騒ぎ立てる自分にもイライラしている。ひまなのか、おれは。

それにおじいさんには病院に行く自由があるにも関わらず、病状を知らなに人間が電車を一本遅らせてくださいというのはいかがなものか。(正直大阪は都会なのですぐに電車は来るんでしょうけど)

つまり最初から最後までおじいさんが悪い!という印象を与えるのに十分で、被害を受けている女性は可愛そうだと思いやすいのであって、お互い頑固が故に問題が大きくなり、最終的に若者のツールでバカにされて、それを見て不愉快になった私がこの記事を書くことになってしまったのです。」

 

 

僕も面白い記事を書きたいですが、なかなか世の中面白い話題で溢れているものでして。

皆さんはどうでしょう。

どっちが悪いは溝を深めるだけなので、どうすればよかったと思いますか?

 

事なかれ主義の私と同じで、席を変えるが良かったのか(満員電車ならそれはできないのでなんともですが)

どっちかが電車を遅らせるべきだったのか(どっちかという点で善悪を決めなければならないのがまたジレンマ)

そもそも高齢者は区別して別の車両に乗せるか(結構現実的、乗車賃を安くするなどでWin-Win!)

 

若者と高齢者の深い溝、それを埋めることはできなくもないでしょうけど現実的ではないのでぜひそこを考慮した社会づくりが必要になってくるのではないかと思われます。